石田家の歴史 
 SINCE1919~ 

 ISHIDA Family History 













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 会長を偲ぶ


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会 社 概 要 ご 挨 拶 会 社 沿 革 組 織 図 社 是 神 棚


  ご 挨 拶  President's Message

大正8年創業、歴史と感性と技術が誇りです。
Founded in 1919. We are proud of our history, sense and technology.
2021年5月1日で創業102年を迎えました。SINCE1919~
On May 1, 2021, we celebrated the 102th anniversary of its founding.
  代表取締役
  石田 全功
   昭和32年(1957年)1月1日生
   MASANORI ISHIDA
   President & CEO
 
 創業102年を迎え… since1919(大正8年5月1日)~2021
 102th Anniversary since its founding. Since 1919 (May 1) -2021

石田造船の歴史は私の祖父・五左衛門が自宅のある折古浜にレールを引き氏神様である五柱神社で御祈願して頂いた大正8年(1919年)5月1日が始まりです。
「令和」に改元がなされた2019年5月1日がちょうど創業100年に当ります。これは天啓とも言える栄誉で五左衛門が船大工の棟梁として仕事に励み昭和に入り太平洋戦争を経験し激動の時代を光春と二人三脚で生き抜き石田造船の礎を築いたからです。
石田家のルーツは明治5年(1872)に戸籍制度が始まり市に届けた戸籍により江戸時代に生きた先祖の常五郎(寛政11年(1799)生まれ)が一番古く、常五郎の両親については記載が無いので初代を常五郎とし逆算すると令和3年(2021)で222年を迎え、私で6代目となります。
私は家業を継ぐため昭和59年(1984)に入社し、光春から経営を学び平成12年(2000)、光春が社長在任50年を迎えたのを機に43才で三代目として社長に就任し入社して21年経過してました。 30代の頃は人生経験が浅く、信用していた船主に騙され新造船代金約3億円を失い人間不信に陥り、それからも予期せぬトラブルが発生し貰ってた手形が不渡りとなったり、想定外が重なり約2億円を失いましたが、くじけず、しっかり前を向いて歩んで参りました。
失敗する度に銀行から借入し「こんな人生、嫌じゃ」と思いながらも光春から「神様が、お前に課した試練じゃ、命までは取られんから頑張れ」と励まされ、若い時だったから希望を胸に大きな壁や山をいくつも乗り越えられたと思います。失った大金は寄付したものだと前向きに考えバカな自分と闘いながら波乱万丈の人生を歩み60才を超え始めて世の中、人生が分かったような気がします。

正憲・光春  UCRにて  名村造船にて 

人生を振り返って見れば大学を卒業した22才の夏にアメリカ・ロスアンゼルスに留学し2年間を過ごした事が人生に、とっても良い影響を与えてくれたと思っています。帰国後、大阪の木津川沿いにありました名村重機船渠に入社し造船の基本を学び大阪を満喫しました。その後、東京で2年間修業し28才の時に家業を継ぐために因島に戻りました。30才の11月1日、潜水作業をしている時に海中で溺れ意識を失いかけた時に親父に助けられ救急車で運ばれ入院し一命を取り留めました。それからは年の節目に必ず何かが起こり、40才の時には第5腰椎のヘルニアで手術を受け1ヶ月の入院となりました。45才の時には痔ろうで入院・手術を受けました。また母・由子が「ピック病」になり、治療薬が無いので、どうすればと思い悩んでいた翌年には首以外は動かず私の事も分からない植物人間の状況になりました。50才の時は狭心症の発作で救急車で運ばれカテーテル治療により心臓の細くなった血管を広げました。55才の時には父・光春が突然亡くなり翌年に母・由子も光春の後を追うように亡くなりました。また60才の時には45年間に亘るタバコの吸いすぎで肺気腫となり息をするのが苦しくなりフーフー言いながら今に至りコロナにかかったら一発でアウトなので気を付けて生活しております。このように節目の年に何かが起こるため来年の65才には幸運が舞い込むように願っております。
人生を成り振り構わず会社に捧げ業界で生き残るために一生懸命努力し工場内の至る所に親父と私の汗と涙が詰まっております。これから先も時を損じず風・潮を読み船屋魂で頑張り徳を積んで参りたいと思います。

   
社長室 神棚  工場 神棚 


            
家業の歴史 

初代・五左衛門の父・儀三郎の木造船を修繕するために折古浜の自宅横で創業したのが始まりです。手狭になったので千守の土地を買い移転し小さな漁船の新造や修繕を行なっていた頃、昭和16年に太平洋戦争が始まり五左衛門は海軍に徴兵され戦中・戦後の激動期を光春と一緒に生き抜きました。昭和25年(1950)55才になったのを機に隠居し光春に託し光春は22才の若さで二代目として社長に就任しました。造船一筋に人生を捧げ母・由子と供に石田造船の礎を築き上げました。それから私が託され昭和59年(1984)27才で入社し光春の元で現場と経営を学び高校・大学と船舶工学部で造船の基礎を学んでいたおかげで新造船の設計に従事し夢に向かって邁進しました。平成12年、2000年を迎え光春が72才となり社長在任50年と言う節目の年でもあり私が男の厄年(42才)でもあることから「厄を福に変えよう」と光春から社長交代を告げられ光春が会長に就任しました。
昭和の時代から造船所不況が繰り返され、造船所の倒産が増え取引先である一杯船主も後継者が無く廃業する時代となり船主の数も減る一方で将来像が見えなくなりました。金のある造船所は借金が無いので廃業し安定を求めマンションを1棟買いし賃貸業に衣替えする所も多く自然淘汰が進み昭和と比べ個人企業のオーナー造船所も半減しました。当社も会社に資金が無く生き抜き家業を守るため光春と私の生命保険や預金を解約し会社に入れ運転資金として流用しました。耐え忍んでた時期だったので長年苦労して石田造船を築き上げた光春の功に酬いる退職金を支払うことが出来ず会長の報酬も出せない状況だったので亡くなるまで年金生活でやり繰りして貰い光春には大変申し訳なく思っております。

光春からは「命がけで家業を守れ!!何の役にも立たない男のプライドは捨て、どうしたら出来るかだけを考え必ず実行しろ」また『潮、風、時を読み、ここぞと思ったら打って出て引くタイミングも怠るな。方針転換は早めに決断し臨機応変に対処しろ!』と言われ、どうすれば生き残れるのかを模索し担保が無かったので先代からの信用力・歴史・将来性を判断して頂き銀行5行から約15億円を調達し設備投資を実施しました。工場の外観を「ガンダムのホワイト・ベース」をイメージした船の形に変え2基ある船台にドックゲートを設けセミドライ・ドック方式にしました。また工場内の3塔に乗員の宿泊施設となるドックハウスを53室新設しジャグジー風呂など最新設備を整え、いつお客様がいらしても、お泊まり頂き食事が出来るよう「おもてなし専用」の鉄板室を作りました。お金は無かったけど、あの時の決断があったから今の石田造船があります。毎年のように設備の更新などで借入を繰り返しているので借金は減りませんが夢を持って前進してます。
先代に負けじと船造りに人生を捧げ創業以来828隻の船を建造し1隻たりとも同型船が無く、何隻建造しても「1隻入魂」で新しいアイデアや今までの経験を活かした船造りに邁進し進水するまでが不安で夜中に目が覚めることも多くあり計画通り浮くと感無量で喜びもひとしおです。
初代・五左衛門、二代・光春の功績に感謝し「ありがとう」の感謝の気持ちを持って男のロマンを追い続け好きな事に挑戦して参りました。これから先も一生懸命努力し、まだまだ、たくさんの「夢の船」を設計・建造したいと思います。
「海・船・子ども達に夢を!!」をキャッチフレーズにスタートした「サマーフェスティバル」も令和元年で5年の節目を迎え「海の記念日」に中国運輸局・因島海事事務所長より表彰されました。
令和2年は6年目となり新たな気持ちでフェスを実行しようと思っていましたがコロナで中止することになり、地域の人々の心を和ませるために100発のサプライズ花火を打ち上げ大変喜んで頂きました。今年で7年目となりますが引き続きコロナが蔓延しているため昨年同様に花火だけ実施しようと思います。今後も私の感性と才能を活かした船造りに挑戦し廻りの人々が少しでも笑顔で幸せになれるよう徳を積んで参りたいと思います。

光春公園 地蔵鼻 氏神・五柱神社 菩提寺・明徳寺
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