このように気が優しく、いつも私の傍にいて笑顔のすてきな「親父」でした。10年間私と一緒に過ごし毎日親父の面倒を見て来ましたが、私に相談もなく突然旅立って行きました。
亡くなる2週間前には、ちょうど私が出張で留守にしていた時、母の妹達5人が母を見舞った後に訪ねて来て、楽しいひとときを過ごしたようです。
また、前日の12月1日はとても元気に過ごし、朝から高諸神社の従兄弟が来て会社のお祓いを済ませ、親父に「おじちゃん、寒くなるから元気でね」と会話を交わしていました。
私も仕事がピークに達していて「しわく丸」の海上試運転の日で九州・呼子から中道さんが船長として来てくれる予定でした。心にも余裕がなく、亡くなった日も朝からバタバタしていました。
親父を見ると顔色が少しおかしく、体調が悪いなと感じながら、朝の段取りを済ませてから、かかりつけの医者に事務員と一緒に連れて行きました。
医者からは、CTを撮ってみないとわからないので医師会病院へ行ってみてくれとのことで、詳しく検査してもらうために車に乗せて連れて行きました。
受付を済ませ、あとの事は事務員にまかせて仕事のために会社に戻り、検査結果が出る時間に合わせて病院へ行き、親父と一緒にCT画像を見ながら先生からの話を伺いました。
先生からは、軽い肺炎なので一週間の予定で入院して療養すれば元気になりますよと言われ、親父に「また来るから」と言ったのが最後の会話となりました。
会社に戻り、2時間もしない間に病院から「病室を巡回していたら、光春さんから返事がなく、亡くなっていました」と連絡が入りました。
びっくりして「うそじゃろ」と聞き直すと、ゆっくりでいいから病院に来て下さいと言われ、「なんでゆっくり」と思いながら、車を飛ばして駆けつけました。
父は、上半身裸にされた格好でベッドに横たわり、私に何も告げること無く一人で旅立っていました。
こんなことになるならば救急車を呼んで尾道から福山の専門医に診てもらっていたら違ってたんじゃないか、もっと生きられたんじゃなかったのかと後悔しました。
人の人生とは儚いもので、私の都合には合わせてもらえないものです。
こんなはずじゃなかったのに!!と思いながら仕事が忙しく、傍にいながら看取ってあげることができなくて申し訳ないと、やり切れない気持ちでいっぱいでした。
大好きな親父を失って、改めて親のありがたさが身に染みてわかりました。
もっともっと親父の世話をしたかった。あと10年は生きてほしかった。いくら世話をしても尽きることはありません。
仕事を通じて未来を担う子ども達に夢を与えられるよう、また地域の発展に少しでも貢献できるよう何事にも誠実に取り組んできたこれまでの日々。父の固い信念は私が引き継ぎ現在へと繋がる礎となっております。
どんなに頑張っても追いつくことの出来なかった大きな背中こそ、光が射す方向へと導く人生の羅針盤・・・風向きは強くとも、残してくれた会社をこれからも支えていく事で父への感謝を伝えて参ります。「お父ちゃん」ありがとう。